先月(2021年1月)、中野サンプラザの建て替え工事の事業者が決定しました。
これは中野区における「中野駅新北口駅前エリア拠点施設整備に係る事業化促進」のため、そのエリア内の中野サンプラザも2028年竣工をめどに建て替えられることになりました。
野村不動産㈱を代表事業者とするプランが採用され、東京建物㈱のグループ案が次点となりました。
審査委員会の講評の中で、
「文化・芸術等発信拠点の形成において、7,000人規模のホールをさまざまな演出に対応する舞台と視距離を抑えた客席により構成し、同様な競合ホールが多くないこと」を選定理由の一つに挙げられています。
小田さんも思う存分、場内を走れますね。但、これからは、あんまり走らない方が良いかもしれませんが・・・。
次点の東京建物㈱のグループ案は3つのホールができる計画でした。吉本興業㈱やTOHOシネマズ㈱が参加したはりましたので、吉本の演芸場や映画館が計画されていたんでしょうね、きっと・・・。㈱丸井グループも名を連ねていましたので、結構、楽しそうなエリアになるんじゃないかと楽しみにしていたのですが、残念ながら次点・・・(-_-;)
現在のホールが2,200人規模なので3倍以上も収容人数が増える巨大なホールになってしまいます。付き人が、イルカのなごり雪コンサートを見に行ってあまりの巨大さにビックリした東京国際フォーラムホールAでさえ,5,000人規模なので、建替え後の中野サンプラザがいかに巨大なホールになるのか皆さんご理解いただけることでしょう。何のコネも関係者でもない付き人は、前方の座席など当たるはずもなく、「舞台と視距離を抑えた客席(=横長?)」という触れ込みながら巨大ホールには違いなく、双眼鏡片手に鑑賞する羽目になりそうです。
中野サンプラザは、「オフコースの小さな部屋」が開催されていた「日本青年館」とともに、二人のオフコース時代の聖地であると、勝手に思い込んでいる付き人にとって、現在の中野サンプラザの建物が建替えられてしまうのは残念至極です。
「次はサンプラザでやります!」
1974年5月7日、日本青年館(1,250人収容)でおこなわれた3回目のリサイタル「明日へのあゆみ」で小田さんが「次はサンプラザでやります!」と冗談でいわれたほど「中野サンプラザ」は当時のオフコースにとっては、あこがれのホールだったのでしょう。しかしそれがその年の10月に本当に実現してしまったので、なんでも言ってみるものですね。←アンタは真似したらあかんで!出典:小田和正ヒストリーYES-NO小貫信昭著 角川文庫刊P101
二人のオフコースと中野サンプラザ
オフコースの4回目のリサイタル「秋ゆく街で」が1974年10月26日、中野サンプラザで開催されました。この様子はCDが発売されているのでお聴きになられた方も多いでしょう。
その6日後には同じ中野サンプラザで青山学院女子短期大学の青山祭に参加されました。
中野サンプラザはその前年の1973年6月1日にオープンしましたので、まだピカピカのホールだったわけです。
オフコースの活動記録としてオープンから3日後の6月4日に中野サンプラザに行かれています。その後も7月14日、8月6日に訪問が記録されています。
その後、オフコースのリサイタルは毎年10月、定例的に中野サンプラザで開催されました。
1975年10月4日に第5回リサイタル「秋ゆく街でⅡ」
1976年10月23日第6回リサイタル「秋ゆく街でⅢ」
1977年10月23日第7回リサイタル「秋ゆく街でⅣ」
1978年10月25~27日第8回リサイタル「秋ゆく街でⅤ」
1979年からは全国ツアー1979-1980OFF COURSE Concert”Three and Two”が10月16日より立川市民会館から始まってしまい、中野サンプラザでの「秋ゆく街で」は自然消滅してしまいました。出典:はじめの一歩②P138
因みに青山学院女子短期大学は2019年度以降の学生募集を停止されました。段々と古いものは無くなっていきます。
「忘れ雪事件」と中野サンプラザ
第2の「グレープ」路線を狙って、東芝EMIが半強制的に松本隆作詞、筒美京平作曲の「忘れ雪」をレコーディングさせ、1974年10月20日にレコードが発売されました。通常であれば新曲披露として10月26日のリサイタル「秋ゆく街へ」で歌うべきものでしたが、オフコースのお二人は、「気に入らない!」・・・ということで、それ以降も一度もステージで演奏されませんでした。これを「忘れ雪」事件と呼ぶそうです。出典:小田和正ヒストリーYES-NO小貫信昭著 角川文庫刊P101
因みに「忘れ雪」のB面は「水曜日の午後」ならぬ「水いらずの午後」松本隆作詞、筒美京平作曲というウソみたいな本当の話です(^_^;)
この「水入らずの午後」を拓郎が気に入った曲として・・・。坂崎さんとの爆笑トークはここをクリック。
後日、小田さんは・・・
「”忘れ雪事件”はもう時効だよな。この曲は筒美京平さんが僕らをグレープみたいなイメージで書いてくれた曲だったけど、僕はこの曲が好きじゃなくてさ。あの、京平さんは別に悪くないよ。そう依頼されてプロの仕事したんだし。でも、ステージで歌う必要はないしプロモーションする必要もないと思ってたから、レコード会社のひととかたくさん来てるこのリサイタルでも歌わなかった。そしたら「オフコースは生意気だ!」ってなった。別にオリジナルにこだわったわけでもなくてさ、自分が納得してやりたかっただけなんだけど・・・。」出典:月刊カドカワ1991年6月号P31
「・・・よく言われることなんだけど、僕らにはまったく金(カネ)の匂いがしなかったらしいよ。今のアマチュアの連中よりもずっと。そういう意味じゃプロ的じゃなかったのかもしれないね。・・・あいつら2人とも、ちゃんとした大学卒業しているから、どうせちょっとやってやめちゃうんじゃないか、って思われているようなところもあったみたい。それに、あんまり頭下げたりしないから、生意気だって見られてたんじゃないかな(笑)。」出典:オフコースThree annd two オフコース著 八曜社刊P45
当時まだ小田さんは早稲田大学の大学院生だったので無理もないハナシでしょう。年月が経つにしたがって段々と「まるく」なっていかれましたが、その片鱗は今でも垣間見ることができます。←炎上しまっせ~(・_・;)
遥かなり中野サンプラザ
実は今月末、2月27日、28日に中野サンプラザで、スターダスト☆レビュー40周年 ライブツアー「年中模索」~しばらくは、コール & ノーレスポンスで~が開催されます。現在の新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言が発出されている東京都、大阪府で、手あたり次第ライブに参戦するわけにはいかず、厳選する必要があります。しばらくは地元大阪でのライブで自重し、宣言が解除されれば、ホールの見納めとして次回の中野サンプラザ公演には是非、参戦したいと考えています。それまで建替え工事が始まらないことを祈るばかりです。
関東在住の読者のみなさんはこれを機会に今一度、中野サンプラザを訪問されてはいかがでしょう?ヘッドホンでCDの「秋ゆく街で」のライブを聴けば、きっと1974年10月26日に戻ったよ~な気持ちになられるのではないでしょうか?
遥かなり 中野サンプラザ・・・。